ビルドンブンコ

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吐き気お試し無料

 その日は会社でミスをしてしまったのだが、大したミスではないと自負しているので、落ち込みはしていなかった。むしろ、あの程度のミスで怒鳴り散らす上司への怒りで俺は早足になっていた。

 怒りを自覚し、この感情を家に持ち帰るのは良くないと考え、気分転換にいつもは通らない、大通りから外れた路地から駅に向かうことにした。

「悩んでるね」突然声をかけられる。「助けてあげようか」

 思わず足を止めてしまった。

 見ると、葬式帰りかと思うような黒いスーツを着た、三十代くらいだろうか、俺より少し年上と見て取れる男が立っていた。右手にはアルミケースを提げている。いかにもなセールスマンだ。俺は気を引き締める。

「誰だって悩んでるだろうし、どこかで助けを求めてるでしょう」と俺は安いキャッチセールスには引っかからない人間だということをアピールする。

「そう。だから私は客を選ばない。誰でも助けることができるし、誰の悩みでも解放できる」

 セールスではなく勧誘系だろうか。引き止められないうちにさっさと立ち去ろう。そう決めて歩を進めようとしたのだが。

「私が売っているのは無害な病気だ」

「は?」思わず振り向いてしまう。

「インフルエンザで一週間休んでもいい。もう少し重めの病気で入院したっていい。しかし無害だ。苦しさは感じないし後遺症も残らない。時間が経ったら自然に消える」

 もしかして、ただの頭のおかしい人だろうか。何の言葉も返せないでいると、男は片膝をついて、地面の上でアルミケースを開ける。横から覗き込むと、小さなピルケースがぎっしりと詰まっていた。

「信じてもらえないのは百も承知なんでね」言いながら、男は中から一つ抜き出し、差し出してきた。「お試しとして無料配布している吐き気だ。飲めばすぐに吐き気を催す。もちろん無害だ。体への負担はない」

「あっそう」

 面倒なので、受け取ってさっさと帰ることにした。気味が悪い。貰ったピルケースを鞄に突っ込んで駅へと早足で歩く。振り返ってみると、男は追ってくるでもなく、同じ位置で立っていた。また別の通行人を待っているのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい。ただ、気分転換にはなった。ちょっとした話のネタにできそうな一幕を体験できたと考えれば、いつもと違う道で帰った意味もあったと思える。

 

 

 鞄に入れっぱなしだったそれを思い出したのは、すぐ翌日の朝だった。昨日のミスを未だにネチネチと言ってくる上司に朝からやる気を削がれ、結果、昨日と同じ気分に落ち込んだことで思い出されたのだ。俺は上司への怒りのまま、半ばやけくそで、ピルケースの中のカプセルを水で喉の奥へ流し込んだ。するとどうだろう。五分もしないうちに吐き気を催したではないか。トイレへ駆け込み、即座に吐いた。

 嘔吐だ。

二日酔いでも食べ過ぎでもない。何の心当たりもないが、自然に吐いたのだ。不快感はなかった。

 俺は吐いたことを誰にも言わず、その日はそのまま仕事を続けた。どこも苦しくない。それどころか、気分的な問題だろうか、吐くとスッキリして仕事が捗った。おかげで定時に退社できたので、昨日と同じ路地へ向かう。

 そこに昨日と同じ姿で男は立っていた。

「信じてもらえたようだね」俺の顔を見るなり男は言った。そして地面の上でアルミケースを広げる。「どんな病気をご所望かな」

「他人のせいにできる病気が欲しい」俺は即答していた。浮かんでいたのは上司の顔。

「ふむ。では鬱病なんていかがかな」言いながら、ピルケースを一つ選び出す。見た目には昨日の吐き気と同じだ。「これを飲んで診断を受ければ、君は鬱病になれる。診断書も出る。そうすれば、その原因は何なのか、となるだろう。後は君次第だ」

 聞きながら、俺は値段を聞くよりも先に、鞄から財布を出して広げていた。

 

 

 幻覚、幻聴があると診断された。もちろん変なものは見えていないし聞こえていない。診断結果がそうなっただけだ。

 即刻入院となった。

 入院が決まった以上、会社からとやかく言われることはなく、俺は病室のベッドで天井を見つめていた。

 会社帰りの同僚たちが見舞いに来てくれた。急な入院でびっくりしたとか、仕事のことは心配しなくていいとか、優しい言葉をかけてくれる。健康な俺は微かな罪悪感を覚えたが、全てを明かして謝ろうとは思わなかった。無害な病気を買ったなどと本当の話をすれば、それはそれで妄言と受け取られるだろう。

 俺が言い出すまでもなく、原因はあの上司だろう、と言ってくれた人がいたので、俺はその言葉に頷きを返した。周りから見ても、俺があいつにストレス発散用サンドバッグ扱いされていることは明らかだったらしい。

 一月ほどして退院し、会社に戻ると、上司の俺への態度は明らかに以前のそれと違っていた。

 

 

 仕事に身が入らない。ストレスの大部分を占めていた上司からの嫌味がなくなっただけで、仕事にストレスがないわけではない。特別な理由があったわけではなかったが、俺はまた路地を進んでいた。

「すっかりリピーターだな。感謝しなければならない」男は待ってましたと言わんばかりに、早速アルミケースを広げる。

「とびっきりのやつが欲しい」俺は急かすように言った。「二度と会社に行かなくてもいいような、とびっきりのやつ」

「それは難しい。健康的に生きていれば、病気はいずれは治るものだからな」言いながらも、男の指先はピルケースを選んでいる。「単に仕事が嫌だと言うなら、これはどうかな」

 俺はそれを買い、家に帰ってすぐに飲んだ。

 

 

 俺は働いた。

 起きて、食べて、働いて、食べて、寝て。毎日繰り返す。

 何の文句も言わず、機械のように。

 そのことに関して、何も感じる事はない。

 俺の感情は死んだのだ。

 後悔という感情を抱くことすらない。