ビルドンブンコ

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ワンシーンの代役

 撮影は十秒にも満たない一瞬の着地シーン。映るのも腰より下の足元だけ。先輩の体調不良は心配だが、初めて本番の現場でスタントに臨める機会を得られた。後は俺がきっちりスタントを決めるのみ。

 なのだが。

 俺はすでに五回もその着地シーンの撮り直しをさせられていた。撮影のたびに建物の屋上に上がらなければならない。

 監督は先輩のスタントにかなりの信頼を置いていたようで、突然代わりに現場に入ってきた俺が気にくわないのに違いない。このシーンだって、飛び降りる場面では主役を演じる役者を使うのだから、わざわざ俺が屋上まで上がる必要はなく、ちょっとした高さの台を用意すれば、着地シーンの撮影はできるはずだ。俺はスタッフと共に階段を登っていく。これも監督の嫌がらせに違いない。往々にして監督というものは自分勝手だし、周りも従うより他ないのだから、全てを思い通りに動かせると勘違いしているのだ。まあ、俺も従っている人間の一人なのだが。

 屋上に到着。カメラはどこにもない。着地点にもない。俺は上から監督を睨んだ。演技指導という名の下に、俺は意味もなくここから飛び降りさせられるのだ。屋上の縁に立つ。六回目だ。どうせカメラは回っていない。日々のスタント練習に比べれば大した高さではなく、恐怖も感じない。俺が好きなタイミングで飛び降りて、着地するだけ。監督の意地悪から逃れるように、俺は足元を蹴り飛ばした。

 

 

 着地シーンは後回しにされた。

 簡易テントの下でパイプ椅子に座って水を飲む。

「大変そうですね」

 若者が隣のパイプ椅子に腰掛けてきた。同年代くらいの男だが、俺は居住まいを正す。何故なら彼は主演俳優だからだ。

「撮り直しばかりです」溜息を添えて俺は首を左右に振る。「たかが一瞬の着地シーンで、恥ずかしい」

 恥ずかしいというよりは、情けないの方が俺の心情を表すのに適しているのだが、それこそ恥ずかしくて、そんな言葉は吐けなかった。

「いえ、立派だと思います」と、主演はわけのわからないことを言う。「確かに一瞬の着地シーンですけど、僕にはできないことです。あそこから飛び降りることはできても、上手く着地することはできない」

 さっきまで立っていた屋上を見上げる。

「怖かったですか?」俺は尋ねた。「あそこから飛び出すのは」

「飛び降りの撮影は初めてではないですし、下にマットも敷いてありましたから、僕としてはそこまで怖くはなかったんですけど、でも、怖くないといけないんですよね」

「怖くないといけない?」

「そうなんです」言いながら、彼は膝の上で台本を広げた。「追手に捕まる恐怖とあそこから飛び降りる恐怖。主人公はその二つを天秤にかけて迷った末、飛び降りることを選びます。だから、僕はその恐怖と葛藤を演じなければならないんです」真剣な顔でそう言ってから、おどけたような笑顔になって「じゃないと、監督にどやされますからね」と言い添えるのだった。

 どやされる、という言葉を俺は初めて聞いたが、文脈から何となく意味は読み取れた。

 スタッフが呼びに来て、彼は立ち上がる。持っていた台本を座っていた椅子に置いて、律儀に俺に一礼してから立ち去って行った。ふと、俺はその台本を手に取ってパラパラとめくる。俺ももらってはいたが、着地シーンだけだったので読み込んではいない。屋上から飛び降りる流れを軽く追っただけだった。

 どのページにも書き込みがされていて、刷られて日も浅いはずの台本は古本のごとき様相を呈している。

 件の飛び降りの場面には、先ほど本人が言っていた通りの恐怖やら葛藤が文字として記されていた。しかしその後の着地シーンには『スタント、代役』と短く添えられているだけで、その着地後からまたびっしりと書き込みがなされている。

 急に自分が情けなくなる。

 先ほどまで感じていたのは、監督に言われるまま何度もやり直しをさせられていたことに対する情けなさだったが、今は違う。主演俳優の彼がここまで考え抜いて演じているというのに、一瞬でもその代役となる俺の考えの甘さだ。ただ綺麗に着地を決めればいいと思っていた。だが俺は代役なのだ。いつものスタント練習とは違う。その一瞬、主演俳優の彼から演技を託され、次のシーンに渡すのだ。

 それからスタッフが呼びに来るまで、俺はその台本を読めるだけ読んだ。主人公が何を思ってどういう行動をするのか、それを彼はどう演じようとしているのか。俺は着地シーンだけでなく、全て演じるつもりでひたすら読んだ。

 スタッフに連れられて、七度目になる屋上まで来ていた。上から主演俳優の彼を見つける。それから、監督を睨む。

「見てろ」俺は呟く。

 後ろから追手。逃げ道はない。ただ一つ、ここから飛び降りる以外に。躊躇う。怖い。

 ここを飛び出してから着地を決めるまでの刹那、俺は主役だ。