ビルドンブンコ

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卵かけご飯の作り方

 母のペンが進まなくなった。

 兄は春から一人暮らしをする。そんな兄が一人でも自炊できるように、母はよく作る料理のレシピをノートにまとめて兄に持たせようと考えたのだそうだ。それには私も賛成した。兄は不器用ではない。作り方がわかれば、きっと上手くするはずだ。

 初めは思いつくままに様々なレシピを書き起こしていたのだが、次第にエスカレート。わざわざ書き起こさなくてもいいと思えるようなものまで母は書き始めた。神経質な母は、そうと決めたらとことんこだわる。全てのレパートリーをノートに書き記すと意気込んでいた。

「もういいよ」母の手が止まった今しかないと考えて、説得にかかる。「卵かけご飯なんて、レシピがなくても作れるよ」

「駄目」母は強く首を横に振る。「ちゃんとまとめておかないと、失敗したらどうするの」

「失敗しないよ。手元が狂って醤油を入れすぎるとか、それくらいだよ」

「あっ、そうね。それ、書いておかないと。醤油を入れすぎないように、と」口に出しながら、母はペンを動かす。「そういえば、醤油って何ミリリットルかしら」

「知らないよ。適量でしょ、適量」

「適量じゃ駄目よ。あの子が適量を勘違いしてコップ一杯分の醤油を使ったらどうするの」

「コップで醤油を測るなんて、ラーメン屋でスープ作ってるんじゃないんだから、あり得ないって。卵かけ丼ぶりじゃないんだよ。卵何個ぶんよ。それにいちいち卵かけご飯作るのに醤油の量を測ったりしないよ。お母さんだって、いっつも容器からそのまま入れてるじゃない」

「私は慣れてるから感覚でわかるの。でもあの子は慣れてないでしょう」

「そんな細かいこと言ってたら、面倒になって自炊なんてしなくなっちゃうよ。本末転倒だよ」

「うーん、それもそうね。じゃあ、小さじ一杯くらいにしときましょうか」

「そうそう。そんなのでいいよ」

「あっ!」

「うわっ、何?」突然声をあげた母に、私も驚く。「どうしたの?」

「材料って卵でいいのかしら」

「卵かけご飯なんだから、卵でしょ。何がおかしいの?」

「卵だと、うずら卵も含まれるんじゃないかしら」

「含まないよ! うずら卵はうずら卵だから。お猪口で食べるんじゃないんだから」

「でも卵って書いてると、あの子が勘違いしてうずら卵を買っちゃうかもしれないし」

「買っちゃわないよ。馬鹿じゃないんだから、うずら卵一個にコップ一杯の醤油を混ぜた卵かけご飯なんて作らないよ。ていうか、それはもう醤油かけご飯だから」

「醤油かけご飯もレシピに入れたほうがいいかしら」

「いらないよ……。醤油かけご飯なんて、お母さんも作ったことないでしょ。作ったことがあるやつだけにしよう。ねっ」

 必死だった。ここで方向を間違えると、あらゆるレシピを際限なくノートに書かなくてはいけなくなる可能性が生まれる。

「それもそうね。作ったことのないもののレシピは流石に難しいものね」

 私はうんうんと何度も頷く。危機を脱した。難しい云々の話をするなら、醤油かけご飯は簡単だ。作ったことがなくてもレシピは書けるだろう。本当に書くことになるから口には出さない。

「とりあえず、卵じゃなくて鶏卵って書いておかないといけないわね」

「間違ってないけどさ……」

「そういえば、卵にもサイズがあるわね」

「あるね。S、M、L」

「どのサイズが一番いいのかしら」

「どれでもいいと思うよ」

「でも、サイズによって醤油とご飯の量が変わってくるわ」

「誤差だよ。SかMかLのどれかって書いとけばいいよ」

「そうだ。ご飯も、炊いたご飯って書いておかないと」

「常識的に生米なんて食べないから大丈夫だって」

「でも、レシピ通りに作ろうとして逆に戸惑うこともあるでしょう。ほら、あの子、素直だから」言いながら、母はご飯の前に炊いたを付け加えた。「他のレシピのご飯と卵も修正しないといけないわね」

 ページを戻りながら、同じ修正を加えていく母。

「順番も書かないといけないわね」他のレシピを見ていて気づいたのだろう。母が呟く。「醤油とご飯を入れる前に混ぜちゃうといけないものね」

「そうだね。それじゃ卵かけご飯じゃなくて卵浸しご飯になるもんね」

「卵浸しご飯? それは作ったことないからレシピ書けないわ」

「書かなくていいよ」

「醤油漬け卵かけご飯のこと? それなら——」

「違う! 違うから、私の勘違いだから、書かなくていいから」

「もう、兄妹揃って勘違いが多いんだから」

「いや、お兄ちゃんの勘違いはお母さんの頭の中だけだよ。勘違いで生米にうずら卵一個とコップ一杯の醤油を混ぜた卵かけご飯を作っちゃうお兄ちゃんは、お母さんの脳内にしかいないよ……」

 こんな具合で、兄のためのレシピノートは無駄に詳しくて分厚くなった。