ビルドンブンコ

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咄嗟の他人行儀

 電車が停車したことを体で感じ、ドアが開いたことを耳で知る。開いていた文庫本から一瞬だけ目を離し、窓ガラス越しにまだ降りる駅ではないことを確認。その目は再び文庫本に戻って文字を追う。

「もしかして、津村さん?」

 顔を上げると、数年前に別れた彼が立っていた。

「いいえ、違います」津村は咄嗟に否定してしまった。どうしていいかわからず、視線を落として本の世界に逃げる。

 しかし彼は「隣、いいですか?」ときいてきた。

 断る理由を持ち合わせていないので、津村は無言で頷いてしまう。

「失礼します」

 彼が横に座る。ドアが閉じて、電車が動き出す。突然の再会に動揺してか、本の内容が全く頭に入ってこなくなったので、本は閉じて膝の上に。津村は顔を斜めに向けて、流れる景色をぼんやりと見つめる。

 わざわざ隣に座ってきたのだから、何かあるはずだと思っていたのだが、彼は話しかけてこなかった。まさか本当に人違いだと思っているのだろうか。いや、それなら隣には座らないはずだ。車内は空いていて、空席も多いのだから。

 どこか気まずさを感じた津村は逡巡の結果「どこかへお出かけですか?」と当たり障りのないことを尋ねた。

「ちょっと病院に」彼は答えてくれた。「妻が妊娠して、入院してるんです」

「えっ」思わず驚きを声にしてしまう。彼が女を妊娠させたという事実に驚いたのだが、それを悟られたくなくて「ご結婚されてるんですね」と、まるで彼の結婚を初めて知ったように津村は振舞った。

「ええ、一年ほど前にプロポーズされて」と彼の口から補足情報が与えられたが、津村は結婚式の招待状をもらっていたので、彼がいつ結婚したのか知っていた。しかし続けて彼から述べられたプロポーズされてというのは、津村には初耳だった。てっきり彼からプロポーズして結婚したのだと思っていた。なぜなら、津村は過去に一度、彼からプロポーズを受けているからだ。

「そのプロポーズは、いつ?」我慢できなくて津村は尋ねた。

「まだ僕が他の方と付き合っていた頃です」

 当時、彼が自分とは別に女性と交際していたことは知っていた。本命は自分だと思っていたし、彼の世間体もあるので許していたのだ。

「では、その方と別れて、結婚を決めたんですね」

 えらく他人事のように津村は言ったが、その方とは自分のことなのだ。人違いのふりをして良かったと感じる。津村として接していたら、こんな皮肉的な言い方はできなかっただろう。

「即答ではありませんでした。プロポーズを受けて、一度保留したんです。それから、当時付き合っていた方に、プロポーズをしました。それが成功したら、彼女からのプロポーズは断るつもりでした。でも、断られた」

 そう。津村は断ったのだ。彼からのプロポーズを。しかし、そういう経緯とは知らなかった。てっきり、自分が断ったから、彼は諦めて別の女にプロポーズをして、結婚したのだと思っていた。

「じゃあ、本当に想っていたのは——」

「当時付き合っていた方です」津村が言うより先に彼が言った。

 自分が彼から想われていたと知っても、津村は何も嬉しいとは感じなかった。

「そうですか」冷たい反応だなと自分でも思う。「でも、諦めて別れたんですね」と毒づいてしまう。彼に諦めさせたのは、自分がプロポーズを断ったからだとわかっているのに。

「確かに諦めました。でも、間違ったとは思ってません。今の僕は妻を愛しているし、妻も変わらず僕を愛してくれています」

 当時の自分たちも愛し合っていたではないか、とは言えなかった。今にして思うと、自分が本気で彼を愛していなかったから彼からのプロポーズを受け入れられなかったのではないかと、津村は考えてしまったのだ。

「じゃあ、当時の相手が現れて、どれだけ想いを伝えても、もう、変わらないんでしょうね」

「はい」と彼は強く頷いた。「僕は女を選んだつもりも、男を諦めたつもりもありません。本当に愛しあえる相手を見つけただけなんです」

 彼のその言葉は、たまたま電車で隣に座った相手ではなく、津村という個人にのみ向けられたものだと、はっきりわかる。

 津村は何も言葉を返さなかった。

 改めて、彼は素敵な人だと思う。

 あの時のプロポーズを受けていれば、という仮定は何度もしてきた。これからも繰り返すだろう。

 電車の速度が緩まる。

 降りる予定の駅はまだ先だったが、津村は席を立った。彼の膝と前座席の背もたれの隙間を抜ける。

 別れの言葉はどちらの口からも出なかった。今の関係は電車で隣り合っただけの他人なのだから。ただ無言で、軽く頭を下げる。

 諦めていたのは自分の方だ。

 同性だからと、津村はどこかで諦めていたのだ。