ビルドンブンコ

趣味で書いた小説を保管する場所

声のあるエレベーター

 愛用していたイヤホンを家に残して外に出たのは初めてだ。車が地上を走る音が、私の住む上層階にまで届くということを知った。エレベーターを待つ間、その他の自然の音に耳を傾ける。今までの私が聞くことのなかった音たちだ。

 「よし」

 一人で呟いて意気込む。

 肩のカバンを掛け直して、姿勢を正す。

 上がってきたエレベーターが開き、奥の壁に埋め込まれた姿見に私の全身が映る。主観的な判断だが、その顔に失恋の影は残っていなかった。傍目には、結婚まで考えていた彼氏と別れた直後だとは判らないはずだ。

 それでも精神的なダメージは大きく、下手に心をざわつかせたくなくて、音楽を聴かないようにした次第だ。歌詞に変な感情移入をしてメンタルをかき乱されるのが怖い。

 扉が閉まると、耳に入るのはエレベーターの低い動作音だけになった。

 途中の階で止まって、女性が乗り込んでくる。きっと出勤のタイミングが重なっているのだろう。平日はこの人とほぼ毎日乗り合わせている。

「おはようございます」と私は言っていた。乗り合わせた住人に対して会釈することはあっても、声に出して挨拶するのは初めてだった。

 相手は少し驚いた様子で、小さく頭を下げると、すぐに扉の方を向いて、つまり私に背中を向けてしまった。私も今までは会釈だけだったし、エレベーターの性質上、扉の方へ身体を向けるのは当然のことなので、私は気分を害するようなことはなかった。それどころか、声に出して挨拶するという行為にどこか清々しさを感じていた。

 翌日も、私は耳を塞ぐことなく家を出た。昨日と同じ時間、同じようにエレベーターは途中の階で止まる。今日の私も「おはようございます」と言った。昨日は驚かせてしまったようだが、二日続けてとなると予想も覚悟もできていたのかもしれない。女性は「おはようございます」と返してくれた。

 その日はそれだけ。彼女はすぐに私に背中を向けた。どんな表情をしているか気になったけれど、顔を覗き込んだりすれば即座に警戒対象とされて今後は挨拶どころか会釈さえしてくれなくなると思ったので、何もせず一階まで静かに過ごした。私と彼女はいつも左右に分かれる。私は正面玄関から、彼女はゴミ捨て場がある裏口からマンションを出るからだ。

「雨ですね」挨拶を交わすことが当然のようになったある日、私は彼女に話しかけてみた。たわいもない天気の話である。

 実のところ、前々から雨が降ったらそう話しかけてみようと考えていた。ようやくその日が来たというだけの話である。おかげで憂鬱なだけだった雨の日をどこか楽しみにしていた。また、耳に届く雨音には、想像していたような不快さはなかった。

「そうですね」と答えてくれた彼女。「雨、好きですか?」

「最近は、好きです」と私は答えた。

「雨が嫌いと言う人のほとんどは、雨じゃなくて傘を持ち歩くのが嫌いなだけだと思うの」

 エレベーターが一階に着いた。彼女は続きを話すことなく、私も尋ねることなく、いつものようにそれぞれ表口と裏口に向かって左右に分かれた。

「傘もそうですけど、私は濡れるのも嫌です」続きを話したのはまた翌日のエレベーターだった。昨日の彼女の言葉を受けた、私なりの考えを述べてみた。「傘をさしていても、足元が濡れるんです。私の傘のさし方が下手なのかしら」

「斜めに降る雨から足元まで守ろうとすれば、傘を大きくするしかない。傘を大きくすれば持ち運びが面倒になる。そしたら傘はもっと嫌われて、傘を使う雨の日も嫌われる」

「傘とかレインコート以外の方法ってないのかしら。特に傘って、昔から形が変わってませんよね。みんな傘の形にこだわり過ぎて何か見落としてるんじゃないかしら」

「みんなって?」

「開発する人たち」

 一階に到着する。

 こんな具合で、私たちは自然に話すようになった。

 その日もエレベーターはいつもの階で止まる。とても短い時間だけれど、私は毎朝どんな話ができるかワクワクしていた。扉が開くとそこには二人。どちらも私が知っている顔だ。先に乗ってきたのは彼女。会釈だけしてすぐに扉の方を向く。私は挨拶どころかその会釈にすら返せなかった。

 続いて乗り込んできた男は先月まで私が交際していた彼。

 もちろん、彼はこのマンションの住人ではない。

 耳に入るのはエレベーターが動く低い動作音だけ。

 一階に着いて扉が開くと、彼と彼女は先に出る。彼は左、つまり表口の方へ。彼女も左へ。いつもは裏口へ向かう右へ行くのに。

 私もエレベーターから出て左を見やる。

 二人は横に並んで歩いていた。楽しそうに話す声が聞こえた。

 私はもう一度エレベーターに乗り、自分が住む階のボタンを押す。

「イヤホン忘れた」

 それが、私がこのマンションのエレベーターで発した最後の声だ。